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第18日 由比〜興津〜江尻 
                          (清水)                   
                          宿間の距離  9.1+4.1km    1998.05.03
                          歩いた距離     16.0km

 今回は3度目の泊まりで、静岡を目指す。

 由比で下車して、10時頃から歩き始める。

 蒲原から続く旧道は古い家並みである。旧道を遮るように薩た(土+垂)峠の山並みが海に
落ち込んでいる。

 駿河湾を一望できる中腹に宗像神社がある。
今回二日間に、この神社を含めて興津宗像神社と静岡の宗像弁財天の三ヵ所の宗像神社を
見ることになる。海上航海の守護神である筑紫の宗像神を勧請したものである。
注連飾りは大きなえびの形のものであった。

 狛犬は昭和3年(1928)の小ぶりの「はじめしょうわ」で御大典記念である。

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 寺尾に「昔の家並みは海沿いにあったが、たびたび津波の被害
をうけ、そのため天和2年(1682)高台に新道を開削し、
東海道とした。
現在の街道は当時のままの道幅で、所々に格子戸、蔀戸の古い
家を見ることができる」という説明板があった。

 今年3月に改築したばかりの小池邸が休憩所として公開してある。
代々寺尾村の名主の邸宅で、大戸、くぐり戸、なまこ壁、石垣を
残している。

 江戸時代に土御門卿の「東行話説」でとりあげられた、サザエで有名な倉沢屋がある。
朝早く開店していないのではいれなかった。今は予約無しでははいれないとのこと。

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 鞍佐里神社がある。
その由緒書きに「日本武尊が薩た(土+垂)峠で賊の焼き討ち
にあい、自ら鞍の下で神明に念じたが、その鞍は敵の火矢によって
焼け尽くした。よって鞍去りの名が倉沢に転訛したともいわれる」。
拝殿の蟇股(かえるまた)には尊が野火を払う図が彫られていた。

 小さな「はじめしょうわ」狛犬がいた。

 薩た(土+垂)峠登り口に「間の宿」本陣跡がある。この田島家は玄関の脇に蔀戸がある
珍しいもの。この辺りは蔵造りの家、格子戸のある家が多い。

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 江戸から40番目の一里塚跡がある。

 その向かいに富士山の眺望がよいという茶屋「望嶽亭藤屋」
がある。ここは「山岡鉄舟が、官軍の江戸城攻撃を阻止する
目的で西郷隆盛に会うため東海道を下った時、官軍に追われて
望嶽亭に逃げ込んだ。主人の計らいで清水港に逃れて
西郷と会見することができた」という所である。

 いよいよ東海道随一の難所、薩た(土+垂)峠である。登り道は3本あり、
「下道は親不知子不知とて海道の岩間を通る難所なり、中道は明暦元年(1655)朝鮮の
信使来たりし時、初めて開く。上道は近年開く」といわれる。
私たちはビワとミカンの畑の中の山側の道を登る。途中で雨にあったがミカンの木の下で
雨宿り。

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 延享元年(1744)の「さつたぢぞうみち」の道標が、駿河湾を
見下ろして立っている。

 薩た(土+垂)峠は鎌倉時代に由比倉沢の海中から網に
かかって引き上げられた「薩た(土+垂)地蔵」を
この山上にお祭りしたのでこの名があるという。

 途中に、薩た(土+垂)合戦場の説明板がある。ここで二度の大合戦があったという。
観応2年(1351)の足利尊氏と直義の戦いと、永禄11年(1568)から翌年にかけての武田信玄と
今川氏貞との戦いである。

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 雲の切れ間から伊豆半島を一望し、振り返って三保の
松原を見ることができる。 ここから中の道を選ぶ。

 広重の「由比 薩た(土+垂)嶺」の絵の位置を探す。
今にも雨が降りそうな暗さで富士が見えなくて残念だが、
想像するだけでも楽しい。

 (平成12年4月には春霞のなか富士山をうっすらと
見ることができた)。

 急坂を下る。緑の木の中のトンネルをいく気分。

 向かいの丘の高い階段を上ると白髭神社がある。
拝殿の脇障子には、日本武尊の東征の図と大蛇を払っている図が彫られている。

右に玉、左に子のいる昭和12年(1937)の「しょうわ」狛犬がいる。

 近くの海岸寺にいく。ここには百体観世音がある。
大正時代の台風で「うち寄せる大波に部落は全滅。それにもかかわらず一人の犠牲者も
でなかったことは波除け如来・百体観世音の御利益ではないかと言い伝えられている」。

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 旧道にもどり造成中の道を下っていくと、農家の多い集落がある。
そこで初めて「牛頭観世音」の祠を見た。

 興津川に「川越し」の説明板があるが、遺跡らしいものはない。

 興津橋を渡り興津にはいる。「鎌倉時代以降、興津氏の知行地で居館を構えていた。
江戸時代には東海道の宿場町として発展した。また身延甲府へ通じる甲州往還(身延街道)が
分岐しており、興津川流域で生産される和紙の集散地である」。

 右に宗像神社がある。
この神社は一説に筑前(福岡県)より宗像神社の興津宮を勧請したといわれており、
それが地名の由来となった。
「当社は興津川の西側にあり、女体の森といって舟人たちの灯台かわりにされていた」。

 樹木が鬱蒼として落ち着いた雰囲気。
境内の一角に石柱に囲まれた小祠があり、大祓湯立の儀式の場である。
「大祓とは知らず知らずの内に犯した罪やけがれを祓い清め災いを取り除く神事で、
竹の葉を使用して熱湯を我が身に振りかける儀式」である。

 なお旧道をいくと、身延道との分岐点があり、古い大型の珍しい形の石灯籠がある。

tokaido18-7.JPG  清見寺にくる。
 ここは徳川家康が今川氏の人質であった時に教育を受けた所で
ある。
 白塀に囲まれて城のような造りで大鐘楼が目立つ。
 この日はたまたま滝と庭園が修復再現された記念で
公開されていた。
 国道から小高く総門があり、JR東海道線を越えて境内に入る。
清見寺の位置は、大和朝廷が東北の蝦夷に備えて関所を置いた所
であるという。

 境内に「咸臨丸殉難碑」がある。
 咸臨丸は日本人が初めて操縦して太平洋を横断した船である。
幕府が瓦解し榎本武揚が旧幕府海軍を率いて北海道に奔ろうとした時、
咸臨丸は鹿島灘で暴風に遭い清水港に避難し、官軍に拿捕され殉難した記念である。

 高山樗牛の仮寓跡の所に、屋根のかかった小さな高札場が残っている。

 江尻宿の入り口に細井の松原がある。松は戦争で松根油として伐採され、
今は見るかげもない。

 街道に面して蔵造り、格子造りの家が多くなる。

 清水の繁華街を歩き、巴川の水神社にいく。

 静岡鉄道の新清水駅の近くの「ホテルサンルート清水」に着く。

 一休みして、近くの飲み屋で貝や魚の刺身と地酒(磯自慢)で夕食。

東海道一口メモ : 馬頭観音・牛頭観音

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