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第8日  平塚〜大磯
         (茅ヶ崎)               
                      宿間の距離    2.9km     1997.10.25
                      歩いた距離   16.2km      1999.12.04    

 藤沢経由で茅ヶ崎で下車し、駅から国道1号を進む。

 十間坂にでる。「此所右に富士・大山・箱根、左に江嶋・鎌倉・六浦・金沢など見ゆるゆえ、
十景坂ともいふ」と説明している。

 第六天神社。「天地世界の創造の神すなわち天神七代の神々のうち第六代目の神である
淤母陀琉(おもだる)神、妹阿夜訶志古泥(おもあやかしこね)神を祭神としている」。

 幼稚園が併設されており、園児が遊ぶのだろう藤沢醸造から寄贈された
大樽でできた小屋が面白い。

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 狛犬は、眉毛がげじげじで鬼顔の昭和8年(1933)の
「はじめしょうわ」

 元禄時代(1688-)の庚申塔がある。

 小出川の支流の千の川を鳥井戸橋で渡る。
 この辺りが「南湖の左富士」として有名な場所で、
東海道を京に上る時富士山を街道の左に見ることができるのは、
この南湖と吉原の2カ所だけである。

 天気が良すぎて、もやがかかっていて富士山が見えないのが残念。
(2000.12.13に千ノ川の下流まっすぐの延長に、ぼんやりした
富士山を見ることができた)

 橋を渡ると右に赤い大鳥居がある。
 ここから鶴嶺八幡宮の参道が約1kmあり、松並木である。

 その参道わきに弁慶塚がある。
 この塚のいわれは「建久9年(1198)相模川の架橋落成式に参列した源頼朝が帰途
鶴嶺八幡宮付近にさしかかった時、義経、行家等の亡霊があらわれ馬が棒立ちになり落馬して
重傷を負い、翌正治元年(1199)死去したという。そこで後年義経一族の霊を慰めるため
弁慶塚をつくった」という。

 この鶴嶺八幡宮は、「相模の国茅ヶ崎の総社として名高い。
康平年間(1058-)源頼義が東征の際石清水八幡にならい、本郡の懐島郷に一社を創立し、
後に源家が現地に奉遷した」という。

 境内に大きな銀杏があるが、この木は源義家が前九年の役(1051)の戦勝祈願に手植えした
ものであるという。

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 小出川の手前に、旧相模川の橋脚が蓮と水藻が浮いた池の
中に保存してある。
 鎌倉時代の相模川がこの辺りを流れていたということで、
関東大震災の時地上に露出したものだという。

この橋は「建久9年(1198)に稲毛三郎重義が架けたもので、
その橋供養の帰途に頼朝が落馬した」といういわくつきの橋で
ある。

「馬は水中に飛入りて死すとぞ。故に馬入川といふ」と
いわれており、弁慶塚での説明と多少異なるのがおもしろい。

 馬入橋で相模川を渡る。
江戸時代は馬入橋の辺りを船で渡っていたというが、その跡らしきものはなかった。

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 右の蓮光寺の境内の小祠の前に小さな「獅子山」の狛犬がいる。
 左右がともに玉を押さえているのが珍しい。ウンには雄の印がある。

 境内に持ち上げ地蔵がある。
 「心の中で願い事を念じながら持ち上げ、軽く感じたら願いが叶い、
重ければ叶わない」といわれている。

 道の角に力餅で有名な弘栄堂があるのは、この持ち上げ地蔵に因む。

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 平塚八幡宮にいく。

 ここは「仁徳天皇の御代、相模を大地震が襲い、亡き父応神天皇の
神霊に加護を祈ると地震は収まった。そこで仁徳天皇が喜んで
祀ったのが始まり」という。

 相模の国の八幡宮の中心であり、相模五の宮でもある。

 鳥居の近くに「青山石勝」が刻んだ大正11年(1922)の唐草の
「京尾立」狛犬がいる。アに雄の印がある。

 他にブロンズ製の大型の「招魂社」の狛犬がいる。
これは昭和6年(1931)に製作され、戦争で供出されたが
昭和46年(1971)に再興したと記されていた。 

平塚駅前で中華の昼食。

 紅谷町公園の一角に番町皿屋敷のお菊塚がある。
 お菊の遺骸を受け取った父親が「ものいわぬ晴着姿や すみれ草」と詠み、ここに埋葬し
栴檀(せんだん)の木を植えたといわれている。

tokaido08-05.JPG  市民センターの前に「平塚見附の蹟」の碑があり、
ここから西に数百mが宿である。脇本陣、高札場の跡があり、
なまこ壁の建物の消防署の所に西組の問屋場跡の説明板がある。
慶長6年(1601)の伝馬の制度が布かれた時、
伝馬の継ぎ立てをする所を問屋場といった。

 七面大明神の大きな碑がある要法寺の西側広場に「平塚」の碑がある。

 「昔高見王(桓武天皇の孫)の子政子が東国に向かう折、天安元年(857)この地で
逝去した。柩を当所に埋め、塚を築いて印としたが、塚の上が平らであったのが平塚の地名の
起こりとなった」。

 隣の春日神社。こじんまりした神社で、天保14年(1843)の「江戸」狛犬で
アの親狛のおっぱいを呑んでいる子狛がかわいい。

 バイパスと旧道の交差点に「従是東東海道平塚宿」の碑がある。

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 花水橋のたもとで高麗山(こまやま)を見る。
山の形はお椀を伏せた様である。

 花水橋の下流に撫子原(なでしこがはら)と唐ケ原
(もろこしがはら)がある。
「更級日記の筆者である菅原孝標(たかすえ)女が
『もろこしが原』に『やまと撫子』の咲くのを
おもしろがっている」所である。

 橋を渡るとすぐ、藁ぶき屋根の民家がある。

 高麗山麓に高来(たかく)神社。「高句麗は668年に滅亡したが、日本に難を逃れたもの
が多く、中でも王族の一人、若光は大磯に上陸して高麗山の麓に住んだ」という。

 本堂は大扉が開いていて、中を見ることができた。

 「江戸くずし」の大型の狛犬がいたが、大磯の鰹大敷網組合が大正3年(1914)に奉納した
ものである。右からウン・アである。

 境内の慶覚院に木造の仁王像がある。
 また閼伽(あか)井戸があり、「甘露水の塔」の碑があった。

tokaido08-07.JPG  国道から別れて真っ直ぐの細い道が旧道で化粧坂(けわいざか)
といわれ、曽我十郎の恋人虎御前の「化粧井戸」がある。

 東海道線と交差して、住宅の中に神社を探していく。

 日枝神社。

 境内に庚申塔群。元禄16年(1703)のものは三猿が正面を向いている。
隣の亨保12年(1727)のものは「聞か猿」を中心に向きあっている。

 鳥居に懸かった黒い額に道祖神社と書かれている小さな神社がある。
ここは大磯宿の北のはずれで、境内に昔の名前の「塞神社」という石碑も立っている。

 二度目(2000年7月)に訪れた時、この神社は「左義長」の儀式で無形文化財の指定を
受けているのだと祭りの準備をしている古老が説明をしてくれた。
左義長とは「どんど焼き」の儀式のことである。

 大磯から乗車して帰宅。

  

Q.狛犬には種類があるのか。地域によって違いがあるのか。

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