第4日 谷塚〜北越谷 (その1)
歩いた距離 13.6q 2005.04.30 |
東武伊勢崎線の谷塚で下車する。
足立・越谷線を行く。 |
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火あぶり地蔵がある。
この地蔵は「千住掃部(かもん)宿の孝行娘が
瀬崎の大尽の家で奉公していた。
母親の大病を知っても帰宅を許されず思い悩み、
その家に放火をし、その罪で火あぶりの刑になった。
村人は娘を哀れみ、地蔵堂を建立し、供養した」ものという。 |
街道沿いに草加せんべいの店が多くなり、風呂屋ほどの大きな煙突のある、
いけだ屋がある。 |
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草加市役所への道が旧道である。
市役所のあたりから、
木造や漆喰壁で瓦屋根の古い民家がある。 |
右に小さな八幡神社がある。
昭和56年(1981)の「新しょうわ」の狛犬がいる。
拝殿の中に、大きさが1メートル近くもある雌雄一対の獅子頭が置かれている。 |
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草加小学校の向かいに、道路元標がある。
2m以上もあり、鉄枠で補強してある。
これは明治44年(1911)に立てられたもので、
千住町へ2里17町53間3尺、
越ケ谷町へ1里33町30間3尺と書かれている。 |
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通りすぎてきた草加駅からの道と交叉するところに、
「草加町道路元標」と書かれた石碑が傾いて立っていたが、
それは、この道路元標の案内であったようだ。 |
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「おせん茶屋」がある。
これは、草加煎餅の祖といわれた「おせんさん」に
ちなんで名づけられた茶屋風の休憩所で、
柱と梁だけの建物である。
前に「日光街道」と彫られた道標がある。 |
左に入り東福寺に行く。
奥州道中草加宿の開発を手がけた大川図書によって創建された、大きな寺である。
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神明神社がある。
保存された、かつての鳥居の礎石には、
谷塚駅前の浅間神社の手洗石に刻まれていたのと同様の
「不」の高低測量のマークがついていた。
この地の標高は、4.5171mであったという。 |
広い道路と合流するところに「おせん公園」があり、
「草加せんべい発祥の地」という大きな石碑が立っている。 |
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その向かいに、「手焼きせんべい草加屋本店」があり、
せんべいを焼く実演していた。
焼きながら延ばして形を整える人と
醤油たれをつけて焼く人の2人一組で
作ることが分かった。 |
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札場河岸公園がある。
青銅の芭蕉の旅姿の像がある。
「もし生きて帰らばと元禄2年(1689)5月27日、
芭蕉奥の細道の旅の第一歩をこの地に印す」
と書かれた説明板がある。
そして「順礼や 草加あたりを 帰る雁」の
高浜虚子の句碑が立っている。 |
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そこに3階建てくらいのガラス窓がついている
矢倉の建物が立っているが、
綾瀬川や松並木を見下ろすために造られた
ものなのか。 |
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その公園から、
綾瀬川沿いに
1.5kmほどの
松並木があり、
サツキがきれいに
手入されている
松原遊歩道がある。 |
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道路を立体交差する歩道橋「百代橋」がある。
橋名は、芭蕉の奥の細道の冒頭部分
「月日は百代の過客にして、
行きかふ人もまた旅人なり」に由来している。 |
遊歩道を出ると、馬頭観音、庚申塔、水神が祀られてある。
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川沿いになお行くと、
右岸に藤助河岸が復元されている。
「江戸時代の中頃、綾瀬川の船運は盛んで
年貢米をはじめ商品の輸送は綾瀬川に集中していた。
この河岸場は蒲生の高橋藤助が経営したもので、
越谷、粕壁、岩槻などからの商品を東京に出荷していて、
昭和初期まで利用されていた」。 |
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蒲生一里塚がある。
塚の上には、大きなエノキやケヤキなどがあり
遠くからもよく見える。
「日光街道の埼玉県に現存する唯一の
一里塚である」。 |
蒲生茶屋通りを歩き、広い道に出て、にぎやかな商店街を歩く。
「明治天皇田植御覧之処」の碑がある。 |
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