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第3日   北千住〜谷塚  

             (歩いた距離 11.5q   2005.04.23)

 東武伊勢佐木線の北千住駅で下車する。

 

nikko03-01.JPG 「赤門寺」の名で親しまれた勝専寺に行く。
開基の荒井政勝の父が荒川から引き上げたという千手観音が
本尊で、千住の地名の起源の一つとされている。
「日光道中が整備されると、ここに徳川家の御殿が造営され、
秀忠、家光、家綱に利用されたという」。

 

 宿場町通りを行く。
 金物屋の前に、「千住宿本陣跡」の碑がある。

nikko03-02.JPG  左に千住絵馬屋の吉田家がある。
「縁取りした経木に、胡粉と美しい彩りの泥絵具で描く
小絵馬が千住絵馬である。
手書きで描く絵馬屋は都内ではほとんど見かけなくなって、
稀少な存在となっている」という。

nikko03-03.JPG その向かいに、
伝馬屋敷の面影を残した地紙問屋の横山家がある。
 再生紙を現在の足立区の農家が漉き、
千住の横山家が集荷し、浅草紙として売っていた。
 江戸時代末期の典型的な商家造りである。

 

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 右に明和年間から開業している名倉医院を見ながら
荒川土手にぶつかり、
土手に沿って国道4号線を通り越し、氷川神社に行く。

 狛犬は昭和53年(1978)の「しょうわ」である。
 境内の片隅に頭、手、足の区別がつかないほど
丸くなった弘化4年(1847)の「先代」狛犬がいる。

nikko03-05.JPG  富士塚がある。山頂に天保2年(1831)の石祠がある。
 ここの富士講中は
対岸の埼玉県を含む広範囲なものであったという。

 荒川を千住新橋で渡る。
 河原では野球、サッカーなど楽しんでいる。

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 真福寺には庚申塔や馬頭観音がある。
 その横の斜めの道を行く。
 梅島駅の前を通る。
 「将軍家御成橋松並木跡」の碑があるが、松は残っていない。

 境内が広い鷲神社がある。
 鷲神社は旧利根川水系に多く祀られている神社である。
 平成13年(2001)の「新しょうわ」の狛犬がいる。
 敬宮愛子内親王の誕生を記念して奉納されている。
 ここにも富士塚がある。
 境内に「島根歌舞伎」や「島根ばやし」が伝わるとの説明板がある。
 「島根歌舞伎は今は立ち消えの状態ですが、
明治から戦後までは盛んに受けつがれていたということです。
 島根ばやしは神田ばやしの流れをくみ、現在足立区の無形文化財となっている」という。

 なお行くと、右に淵江小学校があり、
校門を入ったところに、青銅製の二宮尊徳の像が立っている。

nikko03-08.JPG その裏に氷川神社がある。

 

nikko03-09.JPG nikko03-10.JPG  明治26年(1893)の
「獅子山」の狛犬がいる。
素盞雄神社と同様の
構えの形だが胴が長すぎる。
石工は谷口金作である。
右アが雄の印がある。
左アの雌の山には子狛がいる。

 境内に「保木間の誓い」の説明板がある。
「1890年代に足尾銅山の鉱害事件が発生した。
明治31年(1898)、群馬県・栃木県から住民3千人が被害を訴えるため上京した。
被害問題に取り組んでいた衆議院議員田中正造は上京する被害住民と
ここ保木間氷川神社で出会い、鉱害問題の解決に努力すると演説を行い、帰郷に導いた」。

nikko03-11.JPG  国道4号線を横切り、
水神橋を渡らずに毛長川に沿ってくだり、
大鷲(おおとり)神社に行く。
 この神社は「平安時代、源頼義の子である新羅三郎義光が
奥州の役に赴く途中、戦勝を祈願した」と伝えられる。

 文化9年(1812)の「江戸くずし」狛犬がある。
ずんぐり太っていて、右アは擬宝珠で、左ウンは二段角である。尾が後ろで固まっている。
 石工は新五良、源治良である。

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nikko03-15.JPG  毛長川を渡り、東京と埼玉の県境を越え、草加市にはいる。

草加市:マンホール

 谷塚の駅の近くに、浅間神社がある。

 狛犬は「獅子山」で、構え方や尾の形は素盞雄神社と同様である。
右から雄・雌であるがそれぞれ印がある。

 境内にある手洗石は、近くからここに移されたものであるが、「不」の記号が刻まれている。
 これは「現在の水準点にあたります。内務省が明治9年(1876)からイギリスの測量技師の
指導のもとに、東京、塩釜間の水準測量を実施した。その際この記号が刻まれ、
中央区の霊岸島の平均潮位をゼロメートルとし、この水準点は3.953mであった」という。
「その後明治17年(1884)には、ドイツ仕込みの陸軍省測量局に吸収され、
内務省の測量結果は使われなくなった」というものの名残である。

 東武線の谷塚で乗車して、帰宅。

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