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第24日  細久手〜御獄(みたけ)〜伏見(可児)(その1)

              宿間の距離 11.8km+3.9km     2010.10.6    

              歩いた距離 24.0km

naka24-1.JPG  細久手で泊まった大黒屋は、看板に「旧尾張藩本陣」と書かれている。
細久手宿の本陣、脇本陣が手狭だったこともあり、
尾張藩の大名が他の大名との相宿を嫌い、
大黒屋が尾張藩の定本陣であった。
 今は宿の本陣、脇本陣は残っていないので、国の有形文化財である。

 与えられた部屋は2階の歩くと揺れるような部屋であったが、畳の敷かれた床の間があり、
 細い格子障子の付書院があった。
 掛け軸、一輪ざしの生花もあり、廊下にも畳が敷かれていていた。
 家の奥に向かって狭く急な階段があり、裏に逃げられるような造りになっていた。

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naka24-5.JPG  中山道に面した、黒く塗られた格子窓の、
本ウダツの上がった旅館であった。 

naka24-6.JPG  一軒おいた先の空き地の前に、「細久手宿本陣跡」の石柱がある。

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 中山道を歩く。

 左に、「細久手坂の穴観音」がある。
 道の壁の石垣の一部を室にして、その中に馬頭観音が祀られている。

naka24-8.JPG  右の奥に、開元院があるので、右の細い道に折れる。
 日吉愛宕神社がある。
 宿の産土神で、緑の中で落ち着いた拝殿がある。

 大正12年(1923)の「京尾立」の狛犬がいる。
 右からア・ウンで、ゲジゲジ眉でキリつとしている。

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 なお行くと、曹洞宗開元院に着く。
 この寺は、「小栗家」の先祖の菩提寺であり、
開元院の敷地の中に墓地があった。

 昭和45年(1970)に、父が亡くなったとき
一度家族で寺に詣ったことがある。

naka24-13.JPG  平成になってから、寺のまわりを整備したようで、
墓地も山側に移されて、すっかり変わっていて
昔の面影はなかった。
 朝が早いので参拝客もなく、
きれいに清掃されている寺院である。
 山門も本堂もきれいに整備されている。

naka24-14.JPG  山門前に、新しい16体の羅漢様がある。
 これは「享和元年(1801)の山門二階に
奉安された木像を永久保存する為に、
石仏として新造したものです」

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 平岩辻で、旧中山道に戻る。

 古い造りのよろずやがある。

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 人家がまばらになり、上り坂になる。

 「瑞浪市旧中仙道」の石碑や
中山道道標があり、すぐ左の旧道を行く。

 秋葉坂三尊がある。案内板や石柱がある。 右の土手に3室にわかれた石室がある。
 中には、明和5年(1768)の三面六臂の馬頭観音像と一面六臂の観音坐像と
風化のすすんだ石仏が安置されている。

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 鴨之巣辻の道祖神碑(文字碑)があり、
その前に「旧鎌倉街道迄約1里余」の道標がある。
鎌倉時代に、この近くに、鎌倉から京都に向かう旧鎌倉街道があった。

「切られヶ洞」の石柱。

 鴨之鷹栖一里塚がある。江戸より93里、京へ41里。
 地形の関係で、両塚のあいだが16mも離れているがこのような例は他にないという。

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naka24-27.JPG naka24-28.JPG  竹林の中を通っていくと、
木の間から
御獄の集落が下に見える。

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 しばらく行くと人家がある。

 このあたりは、津橋。

 交差点の正面の細い道を行く。

naka24-30.JPG naka24-31.JPG  川があり、
公民館や
コミュニティバスの
バス停、
中山道道標がある。

 熊野神社がある。石段を上ると白木の社殿である。
 平成3年の「新しょうわ」の狛犬がいる。体中に唐草模様がついている。
 右アは玉を、左ウンは子狛をもっている。

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 回り舞台がある地歌舞伎の小屋がある。
 奈落に入ってみたが、木の廃材が置いてあるだけで、いまも芝居で使われているのかどうか。

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naka24-39.JPG  山道を行くと、百番供養塔がひっそり立っている。
百番供養塔とは、江戸時代に西国33ヵ所、板東33ヵ所、
秩父34ヵ所を巡礼してきた人が記念に立てたもので、
体の弱い人や年寄りたちが地元でこの供養塔を巡礼したと伝えられる。

naka24-40.JPG  このあたりに多い石室に入った馬頭観音がある。

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 馬の水飲み場がある。
「ここは物見峠といい、
道路の両側に計5軒の茶屋があり、
十三峠の前後のこの地であれば
往来の馬もさぞのどが渇たであろう。
 存分のみなさいと北側に三ヵ所の
水飲み場が設けてあった」。

 右に御殿場見晴台がある。恵那山、御嶽山が見渡せる。
 「皇女和宮が東下したとき、
ここに一行が休憩する御殿が造られたことから御殿場と呼ぶようになった」。

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 またしばらく行くと、県の名水に選ばれている清水がある。
 唄清水、一呑み清水など湧水が多い。
 峠越えする旅人や馬ののどを潤ししばしの休息の場となったであろう。

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naka24-48.JPG  石室の中に馬頭観音がある。

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 十本木立場跡の案内碑。

 標識を左に入る。

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 謡坂(うとうざか)一里塚跡がある。江戸より94里、京へ40里。

 謡坂は急坂で、旅人が自分を奮い立たせるために
謡いながら歩いたからという。

 この一里塚は、幕藩体制の崩壊で役割を終えて、
明治41年(1908)に2円50銭で払い下げられ
取り壊された。
 その後地元の有志によって当時の姿に復元されたものである。

 その先、民家があり、案内板が立っている。
「一里塚の近くに10本の松があった事から十本木の立場と言われる。
 安藤広重の木曽海道六拾九次之内御獄のモデルの地がこのあたりで、木賃宿が描かれている」。

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naka24-54.JPG  そこから謡坂の石畳である。

 七御前のキリシタン遺跡がある。
 ここは、仏教の墳墓である五輪塔が多くありました。
ところが、昭和56年(1981)道路拡張工事による五輪塔の移転が行われた際に、
その下の土中から数点の十字架を彫った自然石が発見され、
ここが仏教の墓地を利用した隠れキリシタンがいたことが判明した。
 当時の辛苦に耐えた先祖の慰霊の意味と現世及び今後の人々の幸福と平和を願って
聖マリア像が建立されている。

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naka24-57.JPG  謡坂の石畳道。

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