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下諏訪
09.12.26
10月17日、和田から下諏訪までを歩いたが雨にたたられ、後半の下諏訪では町の中を
ほとんど見ずに通り過ぎた。
そこで今回、下諏訪を訪れて、必要な所を補充しようとした。
下諏訪の駅前に
モニュメント
として
御柱
が立っている。
それは、平成10年(1998)の
長野オリンピック開会式で
会場に立てられた御柱である。
まず、
諏訪大社下社春宮
に行く。
表参道の真ん中に、
太鼓橋の上に屋根がかかった
下馬橋
がある。
室町時代の建立といわれ、
諏訪大社で最も古い建造物である。
ブロンズ製の
「鈴しょうわ」
の
狛犬
がいる。
平成5年(1993)で、右からア・ウンで、
左右とも雄である。
大きく、堂々としている。
幣拝殿
の前に
御柱
が立っている。
建物と比較すると、御柱のたかさが際だっている。
万治の石仏に行く。
春宮の北側にある細い
研川の赤い橋
を渡る。
そこに一茶の「一番に 燕のくぐる ちのわかな」の
句碑がある。
「万治の石仏は」
は万治3年(1660)に建立されたもので、
大きな自然石に浅く腕や袈裟が彫られ、細い目と三角の大きな鼻をもった、ゆったりした石仏である。
「春宮の石の大鳥居を造るとき、この石を材料にしようとのみを入れると、
傷口から血が流れ出たので石工は恐れをなし仕事をやめた。
ほかの材料を見つけ鳥居を完成した石工たちは、この石に阿弥陀如来を祀って記念とした」
という伝説がある。
近くに岡本太郎が揮毫した「万治の石仏」の碑がある。
岡本太郎が「特異な石仏として評価し、世の注目を浴びた」ものです。
中山道を下社秋宮に向かう。
大きな竜頭水口から水がでる
「龍ノ口」
がある。
これは、慈雲寺へ参拝される人のため、中山道を往来する人のために造られたものである。
慈雲寺の参道
に、武田信玄にまつわる
矢除石
がある。
諏訪大社の末社である
御作田社
がある。
下社の御作田祭りは毎年この境内で行われる。
右側に今井邦子文学館がある。
温泉旅館が多くなる。
左に
来迎寺
があり、
境内に銕焼(かなやき)地蔵があるという。
「むかし下諏訪の湯屋に『かね』という幼い子が奉公していた。
ある時『かね』をそねんでいた仲間がつげ口したことから、
湯屋の妻は焼け火箸で『かね』の額をうちすえました。
痛さにたえかねた『かね』は日頃信心していた銕焼地蔵様のもとにひざまづいて
泣きながら祈りを仰ぐと、お地蔵様の額から血が流れ、自分の痛みは消え傷はなくなりました。
お地蔵様が『かね』の身代わりになってくださったのです。
のちに京に出た『かね』は書道歌道を学び、宮中に仕えるようになりました。和泉式部です」。
本陣の岩波家
がある。
問屋場跡に、新しい「下諏訪宿 甲州道中 中仙道合流之地」の
道標
が立っている。
また、甲州道中終点と書れていて
「右 江戸へ53里11丁 左 江戸へ55里7丁
正面 京都へ77里3丁」で、中仙道の標示ともなっている。
下社秋宮に向かう。
塩羊羹で有名な
新鶴本店
がある。
大きな
青銅の鳥居
がある。
下社秋宮
に着いた。
入口に、大きな根入り(ねいり)の杉がある。
丑三つ時になると枝先を下げて寝入り、
いびきが聞こえるという。
神楽殿
の前に、昭和35年(1960)の「鈴しょうわ」の狛犬がいる。
右からア・ウンで、
青銅製
では日本一大きいといわれる
狛犬
である。
先代の狛犬は、戦時中薬きょうを製造するため供出させられたという。
境内に、
国家君が代にうたわれている
「さざれ石」
がある。
竜頭からお湯が
湧き出ている、
「御神湯」
がある。
1階・2階とも連子格子の商家造りである
歴史民俗資料館
に行く。
宿や街道の展示、和宮の下向や天狗党との合戦などについて説明している。
2階に
吹きぬけ
の部分があり、太い柱の組あわせがよくわかる。
ここで別れ、妻は「今井邦子文学館」に行く。
この建物は邦子の実家で、女流短歌誌「明日香」社で使われていたものである。
私は
「時の科学館」
に行く。
水力で回転させる
天体観測時計塔
である
「天文時計・水運儀象台」がある。
下諏訪駅で待ち合わせ、電車に乗って帰宅。
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