もどるfoot_linehidari.gif    iconhoum1.gif   icon2133.gif foot_line.gif すすむ

第7日  本庄〜新町〜倉賀野(その2)
      
(神保原)          
             宿間の距離   8.9+6.7km      09.08.18
               (歩いた距離   17.8km)

 nakasen07-27.JPG  街道にもどると、道の右側が並木のある歩道で、
「中山道 新町宿」と書かれた木柱の道標がある。

 右に行在所公園がある。
 公園の広場の向こうに石塀で囲われた木造の平屋の家屋があり、
明治天皇新町行在所の石碑と説明板がある。
 明治天皇が「明治11年(1878)北陸、東海地域の御巡業を行いました。
その時新町に宿泊された施設です」。
 公園側の塀には広重木曾海道六拾九次之内 新町」のがはめ込まれている。

nakasen07-28.JPG nakasen07-29.JPG nakasen07-60.JPG

 右に入ったところに、新町宿大黒屋の飯盛女のお菊が信仰した、於菊稲荷神社がある。
 拝殿の中に、遊女がそろって神社に参詣している扁額がかけてある。

nakasen07-30.JPG nakasen07-31.JPG

 

nakasen07-32.JPG

 参道の入り口近くに、「新しょうわ」の狛犬がいる。
 平成17年(2005)の大型のもので、
右はアで玉を持ち、左はウンで子がいる。

 水屋は文政6年(1823)に新町の人々の浄財で作られ、
水屋の彫刻や水鉢の文字は立派であるが、
水鉢を支えている唐獅子もいききとしている。

nakasen07-34.JPG nakasen07-33.JPG  水屋の前に、
文政6年(1823)の
尾が太くて短いキツネ狛犬がいる。
 右は少し口を開けて
笑っているようである。
 左は、ウンである。

 本殿の前に、明治11年(1878)の「キツネ」がいる。
 右アには、子キツネがいて、尾は太目で立っている。
 左ウンは、玉を持っていて背中に子キツネがのっている。尾は長く、横に流れている。
 口や耳が補修されていて、右のア・ウンはわからない。

nakasen07-35.JPG nakasen07-36.JPG  境内の片隅に、
先代化した
小型のうずくまった様な
狛犬がいる。

nakasen07-37.JPG

 温井川を弁天橋でわたる。

 その手前、道の左側に弁財天、
右側に「スリーデーマーチ発祥の地」碑がある。
 「1978年11月、新町において
『歩け歩け全国大会 全日本スリーデーマーチ』を開催した。
その記念に碑を立てた。」
 第1回と第2回をこの地で実施した後、
スリーデーマーチは、埼玉県の東松山市に拠点を移し、
ますます盛んに行われている。

 藤岡市に入る。

 右に伊勢島神社がある。

 

nakasen07-39.JPG nakasen07-38.JPG  昭和10年(1935)のキツネ」狛犬がいる。
 小太りで、口が長くなっていて
ネズミのような顔をしている。
 右アは、巻物をくわえていて、
玉を持っている。
 左ウンには、子キツネがいる。

 その先に白壁で、腰板が黒い塀の大きな屋敷がある。登録有形文化財の川端家住宅である。
職人さんが塀の土壁を塗っていた。

nakasen07-40.JPG nakasen07-41.JPG

 関越自動車道路をくぐると、中山道の道標があり、烏川の土手にでる。

 土手下にお伊勢の森があり、小さな祠がある。

 土手はサイクリング道路で、河原はスポーツ広場になっていて、サッカーなどをやっている。

nakasen07-42.JPG nakasen07-43.JPG

nakasen07-45.JPG

 旧道はいったん土手のサイクリング道路から下におりて、
住宅地を行く道のようだが、そのまま土手道を行く。

 烏川を柳瀬橋の人道橋でわたる。
 昔は、舟渡であったという。橋の右側に渡し場があったらしい。

 川の向こう側に、大きな瓦屋根に小屋根がついた家がある。上州櫓造りの家なのか?

nakasen07-46.JPG nakasen07-47.JPG nakasen07-48.JPG

nakasen07-49.JPG

 橋を渡ると再び高崎市になる。

 土手道を右に渡し場から上がってきたところまで行く。

 土手から下っていく道があり、左に子育て観音がある。  

nakasen07-50.JPG

 その先の柳瀬橋からの道、13号線を横切ると、
ちょっとした商店街がある。
 中山道道標がある。

 そこの蕎麦屋で昼食。

 街道から右に入ったところに岩鼻代官所跡がある。
 芝生のきれいな広場になっている。
「寛政五年(1793)徳川幕府により此の地に岩鼻代官所が設置された。
上野(こうずけ)の幕府直轄地、旗本領、寺社領、大名の預り所と武蔵国六郡を支配し
江戸の北辺の守りの中心であった。
 慶応四年(1868)、新政府は岩鼻県を設置し、旧代官所跡が岩鼻県庁となったが、
明治4年(1871)に廃止された」。 

 その広場の一角に小高い丘があり、その上に小さな天満宮がある。

nakasen07-51.JPG nakasen07-52.JPG

 街道にもどると、旧道は左に別れるがすぐに新道と合流する。
 17号線を横切り、鉄道を越える。この道が121号線(旧中山道)である。
 工場街を行く。左に旧道が別れるが、すぐに121号線に合流する。

 倉賀野宿の下町に、閻魔堂がある。日光例幣使道追分である。
 閻魔堂の前に、文化11年(1814)の大きな常夜灯があり、正面に「日光道」、右側に「中山道」と彫られている。
 そこに道標もあり、「従是 右 江戸道、左 日光道」と彫られている。
 日光道とは日光例幣使道のことで、ここで中山道から分岐することがわかる。
 「江戸時代、日光東照宮には毎年4月に朝廷からの使いが派遣されていた。これを日光例幣使という。
例幣使は京都を出発し、中山道を下り、上野国の倉賀野で分かれ、下野国の今市で日光道中に入った」。
 「正保4年(1647)に第1回の例幣使の派遣があって以来、
慶応3年(1867)の最後まで1回の中断もなく継続された」という。

 

nakasen07-53.JPG nakasen07-54.JPG nakasen07-55.JPG

 倉賀野宿に入る。
 白壁の土蔵に松の緑が映える家、連子格子や白壁づくりの商店、隅切りのある商店
棟割り長屋の商店などなど、古い建物が残る落ち着いた街並みである。

nakasen07-56.JPG nakasen07-57.JPG nakasen07-58.JPG

nakasen07-59.JPG

 左に「中山道倉賀野宿」と書かれた道標と古い双体道祖神がある。

「倉賀野駅入口」の交差点で右折し、倉賀野駅に着き、乗車して帰宅。

もどるfoot_linehidari.gif    iconhoum1.gif   icon2133.gif foot_line.gif すすむ