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第27日 新居〜白須賀〜二川〜吉田                
                                             (豊橋)  
              宿間の距離  6.5+5.8+6.1km    1998.10.31
              歩いた距離        25.6km       

 昔は舞坂から新居までは一里の船渡しであったから、私たちも鉄道で浜名湖を渡り、
今回は新居から歩くことにした。

 浜名湖は琵琶湖の近淡海(ちかつおうみ)に対して、遠淡海(とうつおうみ)と
いわれる。

 いつもの新幹線で浜松までいき、東海道線に乗り換えて新居までいく。

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 駅構内に山頭火の「水のまんなかの道が まっすぐ」の
句碑を見る。

 浜名橋を渡る。白壁木造の家が数軒建っている。

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 新居関所は正式には「今切関所」といって、
「今では全国唯一当時の建物が残る貴重な存在」である。
8時半の開館であるが、一番早い客として入館。

 関所は庭の緑と簡素なたたずまいと室内の調和がよい。
庭の一角に太祇の「木戸しまる 音やあら井の夕千鳥」の
句碑がある。

 街道にでて、つきあたりに3軒の本陣跡がある。

 その裏の小山の上の住吉神社にいく。
「慶長8年(1603)の創立で、新居四社(諏訪、湊、八王子、住吉)の一つとされ、
特に漁民の信仰があつい」と説明されている。

 左へ曲がっていくと、寄馬跡の碑がある。

 諏訪神社にいく。下社は参道が長く、落ち着いた感じ。石垣が組んである所から
水が流れ落ちて涼しげである。昭和8年(1933)の「しょうわ」狛犬がある。

 神社の裏の坂道を上るとすぐに、古い祠の上社がある。

 街道には連子格子の昔の家並みが残っている。

 一里塚の跡がある。

 宿外れに棒鼻跡の説明板がある。
「棒鼻とは駕篭の棒先の意味。ここは新居関の西境で、一度に大勢の人が通行できない
ように土塁が突き出て桝形をなしていた。大名行列が宿場にはいるとき先頭(棒先)を
整えたので棒鼻と呼ぶようになった」。
道が折れ曲がっていて確かに棒鼻であると納得する。

 天神社が右の山側にある。この辺りの低い山は、歌枕の高師山。
藤原為氏の「猶しばし見てこそゆかめたかし山 ふもとにめぐる浦の松原」。

 紅葉寺がある。階段を上ると花が咲き緑に囲まれた空き地となっている。
この寺は、足利義教(よしのり)が富士見の旅の途中風景を愛で紅葉を賞した寺という。
現在はこけむした五輪塔があるだけの廃寺である。

 田んぼが続き、その間を浜名街道の松並木が続いている。

 湖西市にはいった所に火鎮神社がある。

 この先元町に、一里山と呼ばれる70番目の一里塚跡と高札立場跡の説明板がある。

 ここは元の白須賀宿。宝永4年(1707)に地震と大津波で町は壊滅し、
翌年西の潮見坂の上の台地に宿は移された。

 右に龍谷山蔵法寺がある。法要で人が集まっているので中にはいるのを遠慮した。
ここの本尊は有名な潮見観音で「宝永の大津波の時、白須賀宿泊の岡山藩池田侯が
当観音の霊夢により危難を免れた」という。

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 旧道を少しいくと白須賀宿にはいり、
右に曲がり潮見坂を上る。
この坂は「西国から江戸への道程では初めて太平洋の大海原や
富士山を見ることのできる場所」という。

 広重の「白須賀 汐見阪図」はこの辺りから海を見下ろして
描いたものであるが、現在は両側に鬱蒼とした木が茂っている
急な坂で、海面が少し見えるだけで富士山はもちろん見えない。

 坂の上には学校と潮見坂公園がある。

 ここを過ぎて道を下っていくと、古い家並みが続く白須賀の町になる。

 街道はかぎ型に曲がっている。
 本陣跡の案内板があり、その先古い大きな家が、本居宣長の門人の夏目甕麿(みかまろ)
邸址である。

 右の神明社にいく。ここで持参のおにぎりで昼食。

 「白須賀宿の火防」の説明板がある。
「宿場の移転以来津波の心配がなくなったが、こんどは冬季に西風が強くたびたび火災が
発生した。そこで火事をくいとめるために工夫されたのが『火防』である。
常緑樹で火に強い槙が植えられ、宿内に3地点6場所の火防があった」という。
家と家との間に土手が築かれ、その上に大きな槙の木が3、4本植わっている。
道の向かい側も同様になっている。これが火防の一部である。

 小さな境川を境橋で渡る。ここが遠江と三河の境。

 この辺りに柏餅で有名な「猿ケ馬場(さるがばんば)の茶店」があったというが、
見当もつかない。

 細谷一里塚がある。

 車の通行が多い単調な国道をひたすら歩く。

 神鋼電機の所で国道と分かれ、右に新幹線のガードをくぐり東海道線を踏み切ると、
二川宿にはいる。

 格子造りの町並みが続く。大名行列祭りの赤い幟が立ち並んでいる。

 右に八幡神社。永仁3年(1295)鎌倉鶴岡八満宮より勧請したもの。
体が正面を向いて置かれている「はじめしょうわ」の狛犬がいる。
参道に古い灯籠がいくつも並んでいる。

 格子の窓が立派な西駒屋。溜(たまり)醤油店で赤味噌もつくっていたという。

 向かいの本陣資料館にはいる。
東海道筋ではここと草津だけが本陣の遺構を復元修理して残している。

tokaido27-4.JPG  上段の間という大名が使う部屋がある。
また6畳や8畳の小さな部屋がふすまで接していて、
廊下は畳廊下になっており、要するに全てが畳敷きである。
便所に上中下があり、風呂場にも上下がある。
昔の形態がよく分かる。

 資料館をでて街道をいく。
洋品屋のショーウィンドが硝子の開き戸で、たいそう古めかしい。
竹で作った道具が無造作に積んであるつり道具屋がある。

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 右に大岩神明社がある。
「文武天皇2年(698)に岩屋山麓に勧請したもので、
武門武格の崇敬あつく、織田信長は陣太鼓を寄進し、徳川家康は
御朱印三石五斗を奉った。大岩地区は製糸業発祥の地で蚕糸業が
栄え氏子もまた繁栄した」という。

 大正9年(1920)の「唐草尾下がりしょうわ」狛犬がいた。

 木造平屋の小さな二川駅。この辺りが宿のはずれとのこと。

 小高い岩山の上に青銅の観音像が立っている岩屋観音にいく。
岩屋観音堂は「天平2年(730)行基が諸国巡業の際に千手観音像を刻んで岩穴に安置して
開いた」といわれている。山の斜面に多くの観音像が置かれている。

 すっかり暗くなった道を宿に向かって歩く。

 商店街にはいると豊橋鉄道の路面電車が走っている。
線路が南に曲がると札木駅で、右にいくと今日の宿ジェントリー豊橋ホテルがあった。

 この辺りは吉田宿の中心という。

 ホテルでシャワーを浴びた後、
豊橋駅の近くの「げん屋」で日本食のコース料理ときき酒セットで夕食。
満足して宿へ帰る。

    

東海道一口メモ:資料館

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