街道にでて、つきあたりに3軒の本陣跡がある。
その裏の小山の上の住吉神社にいく。
「慶長8年(1603)の創立で、新居四社(諏訪、湊、八王子、住吉)の一つとされ、
特に漁民の信仰があつい」と説明されている。
左へ曲がっていくと、寄馬跡の碑がある。
諏訪神社にいく。下社は参道が長く、落ち着いた感じ。石垣が組んである所から
水が流れ落ちて涼しげである。昭和8年(1933)の「しょうわ」狛犬がある。
神社の裏の坂道を上るとすぐに、古い祠の上社がある。
街道には連子格子の昔の家並みが残っている。
一里塚の跡がある。
宿外れに棒鼻跡の説明板がある。
「棒鼻とは駕篭の棒先の意味。ここは新居関の西境で、一度に大勢の人が通行できない
ように土塁が突き出て桝形をなしていた。大名行列が宿場にはいるとき先頭(棒先)を
整えたので棒鼻と呼ぶようになった」。
道が折れ曲がっていて確かに棒鼻であると納得する。
天神社が右の山側にある。この辺りの低い山は、歌枕の高師山。
藤原為氏の「猶しばし見てこそゆかめたかし山 ふもとにめぐる浦の松原」。
紅葉寺がある。階段を上ると花が咲き緑に囲まれた空き地となっている。
この寺は、足利義教(よしのり)が富士見の旅の途中風景を愛で紅葉を賞した寺という。
現在はこけむした五輪塔があるだけの廃寺である。
田んぼが続き、その間を浜名街道の松並木が続いている。
湖西市にはいった所に火鎮神社がある。
この先元町に、一里山と呼ばれる70番目の一里塚跡と高札立場跡の説明板がある。
ここは元の白須賀宿。宝永4年(1707)に地震と大津波で町は壊滅し、
翌年西の潮見坂の上の台地に宿は移された。
右に龍谷山蔵法寺がある。法要で人が集まっているので中にはいるのを遠慮した。
ここの本尊は有名な潮見観音で「宝永の大津波の時、白須賀宿泊の岡山藩池田侯が
当観音の霊夢により危難を免れた」という。 |