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第5日   芦野〜白河  

             歩いた距離 23.0km       2008.10.27

               

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 今日の日程も厳しいので、朝食をとって、
ホテルを8時前にでる。

 昨日の旧陸羽街道まで坂を下り、
細い菖蒲川を菖蒲橋で渡る。

 菖蒲川に沿っていくと、水田の中に参道がある湯泉神社がある。

 参道には、昭和9年(1934)の逆さ狛犬」がいる。
右ウンは、前脚で着地した姿で後ろ脚はまだ空中にある。
左ウンは、目が大きく、口を食いしばって、座っている。

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 嘉永4年(1851)の「尾下がり」の狛犬がいる。
 右アは、小さな玉に手をかけているが、座っていないで、今にも走り出そうとしているようだ。
左ウンはどっしり座っている。

 ここには、樹齢700年という栃木県指定の天然記念物の大杉がある。

 近くの田の中の一郭に、南北朝の頃の芦野氏の居館跡がある。

 柳通を横切り、一本奥の細い道をいく。

 

osyu5-05.JPG  ここは、芦野宿の南端にあたり、
入り口に享保13年(1728)の大きな河原町地蔵が座っている。

osyu5-10.JPG  芦野宿の街並みが保存されている。
入り口や窓が格子で造られた白壁の家もあり、よい雰囲気である。

osyu5-06.JPG osyu5-07.JPG osyu5-09.JPG  それぞれの家には、
「米問屋」とか「足袋屋」、
「ぬり屋」などと昔の商売名が
書かれた灯籠がある。

 江戸時代の蔵座敷があるという丁子屋がある。
 江戸時代からの旅籠で、今も営業しているようだ。

osyu5-11.JPG  新町の地蔵尊がある。
 ここは宿の北端にあり、河原町の地蔵尊と対になるもので、
享保2年(1717)のものである。
縁日は7月23日の地蔵盆であるという。
関西で盛んな地蔵盆が、ここでも行われているとは思わなかった。

 芦野宿を出て、柳街道の向こうに神の宮神社がある。

 田の中の彼岸花がきれいな参道の中ほどに、遊行柳がある。
 「伝説によると、文明3年(1471)時宗の尊皓上人が当地方を巡化の時、
柳の精が老翁となって現れ、上人から十念と念仏札を授けられて成仏した」という。
「後に、遊行柳が謡曲に作られ、芭蕉、蕪村が訪れた」という。

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 芭蕉の「田一枚 うゑて立去る 柳かな」の句碑がある。

 神の宮神社は、小さな神社である。
 明治29年(1996)の江戸中」の狛犬がいる。
 右ウンは、口を広げて笑っているネコ顔である。
左アは、口が先に出ていて少しやせたサルのようである。石工は、平塚竹三郎である。

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 旧陸羽街道に出て、すぐに峰岸地区の細い道にはいる。

 白壁の蔵が松などの緑に映える。

 十九夜塔がある。
 牛の形に似たべこ石がある。
「芦野宿の戸村忠恕が嘉永年間、道徳を作興する趣旨」が彫られたべこ石の碑がある。

 板屋の部落にはいる。

osyu5-18.JPG  諭農の碑がある。
 「べこ石同様、戸村忠恕が農民に
病虫害のこと、飢饉のための備荒法など諭したものである」。

 小さい坂の頂上に、板屋の一里塚がある。

 高瀬の集落にはいる。

osyu5-19.JPG  消防団の機具置き場があり、
その隣に夜警所とかかれた建物がある。
 これと同様のものが、前の板屋の集落にもあった。

 旧陸羽街道をひたすら北上する。

 寄居集落に、コンクリ製の二宮尊徳像がある。
その広場は学校跡地であろうと思われる。

 集落の中の旧道にはいる。
 白壁の塀に囲まれた大きな平屋の家がある。

 泉田の一里塚がある。
江戸から46番目のものであり、関東の一里塚で最北端のものである。

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 左側の大久保地区に行く。

 石切場があり、荒涼とした感じがする。
 道路沿いに、石仏が多く立っている。

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 街道に出ると、瓢(ふくべ)石がある。
30センチもある瓢箪の形の石である。
 これは、箱根霊験記の主人公飯沼勝五郎が敵討ちのため、
足の治るのを待ってここにかくれている間、
手なぐさみに彫ったものであるという。

 勝五郎と妻の初花の墓は、
東海道の箱根の山中で見たことがある。

 旧陸羽街道をひたすら北上する。
 栃木県(下野)と福島県(陸奥)の県境にくる。

osyu5-27.JPG いよいよ、白河市である。

白河市:マンホール

osyu5-43.JPG  県境をはさんで、境の明神の2社が並立している。
 社名は、玉津島明神(女神、衣通姫《そとおりひめ》)と
住吉明神(男神、中筒男命《なかつつおのみこと》))である。
 「女神は内(国を守る)、男神は外(外敵を防ぐ)という信仰に
基づき祀られている。
このため、陸奥、下野ともに自らの側を「玉津島を祀る」とし、
反対側の明神を「住吉明神を祀る」としている」。

 境の明神は、「奥州街道は、奥州、越後などの諸大名が参勤交代で通行し、
旅人や商人などの往来も盛んであった。
 このため、道中の安全を祈ったり、和算額を奉納したり、灯籠や碑の寄進も盛んに行われている」。

osyu5-23.JPG osyu5-24.JPG  その栃木側の神社には、
口からあごが大きい江戸」狛犬がいる。

osyu5-25.JPG osyu5-26.JPG  福島側にも、
よく似た江戸」狛犬がいる。

 「白河の関は、『二所の関』と古来からいわれるとおり、2カ所あった」。
 しかし、「城主松平定信が白河市旗宿の『関の森』を『古関蹟』と断定し、史跡指定となっているが、
この境の明神が二所の関の1カ所かもしれない」ともいわれている。

osyu5-28.JPG 坂を下ると、白坂の宿である。

 ここに、戊申の戦役で大垣藩士の酒井元之丞が戦死したという碑が立っている。

 馬頭観音の隣に、牛頭観世音の石仏がある。
台石は古いが碑は新しく立て替えられたようで、残念である。

osyu5-29.JPG  左に入ったところに、金売吉次の墓があるということだが、
時間の関係で行くのを省略した。
 吉次は、平家の人質であった義経が、鞍馬をぬけて、
奥州藤原秀衡の元へ逃げるのを助けた人である、
との伝説がある。

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 坂を上って進むと、皮篭地区で、
きれいに花が植えられたがある。

 坂を下ると稲田があり、
刈り取った稲わらが
列にして干してある。

 その先にまちが見える。
白河が近づいたのである。

 旧陸羽街道が白河市街にはいるために大きく曲がる稲荷山の辺りが、
戊申の役で「白河口の戦い」の激戦地であったという。

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 そこに、戦死墓と彫られた大きな石柱があり、
長州、大垣藩の戦死者6名の墓である。

 近くに、会津藩士の墓もある。

 白河宿にはいっていく。

 古峰神社にいく。大きな神社である。
 明治32年(1899)の狛犬がいる。
 右アは岩の上に立ち上がっていて、尾は上に持ち上がっている。
 左ウンは座っていて、子狛が2匹いる。尾は背中にぴったりとついている。
目が大きく、精悍な狛犬である。石工は小松寅吉である。

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 市街の道路をいく。
 白河小峰城の城下町である。
 白壁の蔵のある商店がある。
 天神町、鷹匠町、中町、大手町など昔の町名が残っている。

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 大工町にある皇徳寺にいく。

 小原庄助の墓がある。
 墓石は、台石が銚子の袴、竿が徳利、笠が盃である。
 庄助は会津塗師であった。 戒名は「米汁呑了信士」で、
 辞世は「朝によし 昼になおよし 晩によし飯前飯後 その間もよし」。

 同じ寺に、白河口で戦死した新撰組の菊地央(たのむ)の墓があった。

osyu5-40.JPG  奥州道中の終着で、目的地であるJR白河駅にくる。
 赤い屋根で白い壁の小さなきれいな駅舎である。

osyu5-41.JPG osyu5-42.JPG  プラットホームに上がると、
正面に小峰白河城が、
黄葉の樹々の中にそびえている。

 白河駅で乗車し、宇都宮で乗り換えて、帰宅。

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