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第11日  坂本〜軽井沢〜沓掛(その2)
     (横川)        (ゆうすげ温泉)
          宿間の距離  12.7km+3.9km  09.09.27
               (歩いた距離  25.8 km)    11.04.26

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 迂回している18号線を横切り、中山道口のバス停のところから、
碓氷峠への旧道に入る。

 入口には「日本の道百選 旧中山道」とやっと読める道標
「中部北陸自然歩道 上州路碓氷峠のみち」の説明板がある。

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 杉林の中の細い道で、石がむき出していて歩きづらい。

 道の所々に案内板が立っている。
 初めは「堂峰番所」の説明板である。

nakasen11-26.JPG nakasen11-27.JPG  また、「侍マラソン」
「安政遠足(とおあし)」の標示
が所々に
立っている。
 安政2年(1855)、安中藩主の板倉勝明が、
藩士の鍛錬のため、安中城から碓氷峠の
熊野権現までを徒競争させたという。
 昭和になって復活し、
現在は毎年、マラソンを行っているという、
その案内表示のようだ。
 出場者は仮装したりして、
お祭りのようであるという。

nakasen11-28.JPG  「刎(はね)石坂」がある。
刎石とは火成岩が冷却し柱状に割れたもので、
「柱状節理」がよくわかる。

nakasen11-79.JPG  ここには「南無阿弥陀仏の石碑、大日尊、馬頭観世音の碑」
立っている。
 坂本宿上木戸にある芭蕉句碑も以前はここにあったという。

 険阻な坂道で、
十返舎一九が「たび人の 身をこにはたく なんじょみち 石のうすいのとうげなりとて」と
よんだ「上り地蔵下り地蔵」の案内板があるが、板碑の地蔵は見つけられなかった。

nakasen11-29.JPG nakasen11-30.JPG  「覗(のぞき)」という、
木々のすき間から
坂本宿全体を一望できる
ところがある。
 一茶が
「坂本や 袂の下の
 夕ひばり」と
よんだ場所である。

nakasen11-31.JPG  「風穴」、「弘法の井戸」がある。
 飲料水の確保に苦労している土地には、
弘法大師が錫杖をたてたところに水が湧いたという話は多いが、
碓氷峠のここでもそうであったのだろうか。

 「刎石茶屋跡」、「四軒茶屋跡」は説明板があるのみである。
 「碓氷坂の関所跡」は昌泰2年(899)に碓氷坂に関所を設けたといわれる。

nakasen11-33.JPG  樹間に偶然、
「めがね橋」を遠くに見ることができた(11年4月)。
 鉄道が廃線になり歩道橋になってしまった国の重要文化財である。
 碓氷湖を背景にした、赤いレンガのアーチ橋が美しい。

 寛政3年(1791)の「南向馬頭観世音」と文化15年(1818)の「北向馬頭観世音」が立っている。

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 「一里塚」がある。

 こんな山の中なので、小さな塚のようなものがそれであろうか。

 「座頭ころがし(釜場かんば)」という急坂がある。岩や小石がごろごろしていて滑りやすくなっている。
 「栗が原」、線刻の馬頭観世音が立つ「入道くぼ」。

nakasen11-38.JPG  「山中茶屋」の説明がある。
 ここは、峠までの中ほどにあたり、
「寛文2年(1662)には立場茶屋が13軒もあり、
寺もあったという。
 明治には小学校もできたというが、
現在は屋敷跡や墓の石塔が残るだけである「山中学校跡」。
「山中坂」。

 碓氷峠には歴史的な遺跡が多くある。
 説明版がところどころにあるが、自然のもの以外の建物などはなくなっている。
 説明板をたどりながら山道を進む。「一っ家跡」、「子持山」。

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 小さな流れの所には「化粧水跡」

 文政年間に江戸の呉服商が、
人馬の休む所を作ったという
「人馬施行所跡」

「仁王門跡」。

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 吾妻路を思う和歌が書かれた「思婦石」

「碓氷川水源地」。

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 ようやく碓氷峠に着く。
 熊野神社の手前に「みくにふみの碑」がある。
「四四八四四 七二八億十百 三九二二三 
四九十 四万万四 二三 四万六一十
(よしやよし 何は置くとも み国ふみ
 よくぞ読ままし ふみ読まむ人)」。

参勤交代の休憩所の「赤門屋敷跡」の案内板もあり、
その先、熊野神社前にでる。

 熊野神社は、「江戸時代には諸大名をはじめ多くの人々が中山道を往き来した。
関東の西端に位置し、西方浄土、二世安楽、道中安全を叶える山岳聖地」であったという。
 熊野神社は上州と信州の国境にあり、神社の左右半分づつが別の国に属している。
 奥州道中を歩いた時は、下野と陸奥の境に「峠の明神」があったが、
これは2つの神社が県境をはさんで並立していた。

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 参道の階段の取っつきに、「はじめ」の狛犬がいる。
 胴長で首がなく、前後の脚は貧弱でとても走りまわることはできない体型である。
 右はアで、大きな口を開けていて、左はウンで大きな目が線で描かれている。
 「室町時代中期の作と伝えられ、長野県内では一番古いもの」と説明されている。
 建造年が書かれていないのが残念である。
 いままで私たちが見た最も古い参道狛犬は、寛永13年(1636)の日光東照宮の「尾立」狛犬であったので、
それよりだいぶ古いものである。

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nakasen11-43.JPG  階段を上りきる手前の鳥居の横に、
右ア、左ウンの「しょうわ」の狛犬がいる。

nakasen11-47.JPG nakasen11-48.JPG  境内には、右ア、左ウンの
「はじめしょうわ」の狛犬がいる。

 「日本武尊が東国平定の帰路に碓氷峠にて濃霧にまかれた時、
八咫(やた)烏の道案内によって無事峰に達することができたことより、
熊野の大神を祀ったと伝えられる」神社である。
 境内の一角の明治天皇峠御小休所と書かれた石碑の前に、
「日本武尊 吾嬬者邪 詠嘆の処」と書かれた案内板がある。
 「碓氷嶺にたった尊は雲海より海を連想され、走水で入水された弟橘比売命を偲ばれて
『吾嬬者邪(あづまはや)』と嘆かれた」という。
  矢倉沢往還を歩いた時、足柄峠でも同じようないい伝えがあった。

 石の風車がある。
「碓氷峠のあの風車 たれを待つやらくるくると」と追分節にうたわれている。

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nakasen11-53.JPG nakasen11-80.JPG  神社の向かい側に、
力餅で有名な
「しげのや」がある。
 店の前に、
県境の案内板が
立っている。
 店に入ってみると、
店の中の柱にも
上州と信州の両国を
分けていることの
張り紙があった。

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