狛犬一口メモ: 狛犬カタログ  参道狛犬の集計

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街道一口メモ

 

 一里塚  

 慶長6年(1601)徳川幕府は東海道の品川から大津までの53宿を定めた。
 慶長9年(1604)に東海道をはじめ諸道を整備し、日本橋を起点とし1里ごとに
榎などを植えた塚を築いた。この一里塚は街道の里程と人馬の休憩の目安とした。

 東海道では、鶴見(横浜)の市場村で一里塚跡に稲荷小社が祭られ、土山の山中では公園と
なっている。戸塚の品濃坂の一里塚や富士川を渡った岩渕の一里塚は道の両側の塚が
ほぼ当時の形で残っている。箱根の畑宿、笹原、錦田の一里塚は整備され保存されている。
愛知では藤川と岡崎の間の大平一里塚、知立と鳴海の間の阿野一里塚が保存されている。
 しかし「一里塚跡」という石柱が残るだけで消滅してしまったものが多い。

 中原街道では、横浜市旭区の保土ヶ谷バイパスを越えて旧道に入ったところに
「中山の宮下より一里、大和の桜株より一里」という一里塚跡の標示杭が立っていた。

 矢倉沢往還の足柄駅をすぎたところに有闘坂上の一里塚跡の碑があった。

 東海道以外では一里塚はあまり残っていないようだ。

 

 小栗判官 

 説教浄瑠璃やスーパー歌舞伎で有名な物語の主人公。

 東海道では藤沢の遊行寺に小栗堂があり、小栗判官の墓が恋人の照手姫の墓と並んで
いる。 

 金沢浦賀往還では金沢八景に姫小島跡がある。ここは照手姫が地元の漁師の女房に
いじめられたところで、いまは小さな公園になっている。

  

○ 庚申塔  

 三尸(さんし)の虫が庚申の夜、人体から天に昇ってその人の罪過を天帝に告げるため、
生命が縮められるという道教の教えがある。
 延命招福のため、庚申の夜は言行を慎み飲食をとりながら徹夜するという講が広がり、
全国各地で庚申の年に多くの庚申塔が建てられた。

 庚申塔は文字だけのものもあるが、多くは青面金剛と天の邪鬼が彫られ、猿が見ざる、
聞かざる、言わざるという謹慎の態度を示しているものである。

 東海道では、戸塚の柏尾に三面に一匹づついる猿が青面金剛と同じくらいの大きさの
庚申塔がある。小田原の居神神社には片手の仕草だけで見ざる、聞かざる、言わざるを
表しているものがある。

 江の島には江戸中期の珍しい庚申塔がある。「群猿奉賽像庚申塔」という四角柱のもので、
36匹の猿がそれぞれ異なった姿態で歌ったり、踊ったり、綱渡りなどして本尊である山王神に
奉賽しているものである。

 矢倉沢往還では、渋谷の豊栄稲荷神社に近在から集めたという13基の庚申塔がある。
その中で最も古いものは延宝3年(1675)の三猿だけの庚申塔である。

 

 地蔵  

 地蔵菩薩は大地の恵みを神格化したもので、平安中期以降信仰が広まった。
 江戸時代に延命、身代わりなど現世利益を求めるものとなり、特に幼児の救済者と考えられる
ようになった。

 関西にはお盆の1週間後に行われる「地蔵盆」の風習が残っている。
 東海道で土山の旧頓宮村には化粧された地蔵がいて、その先の水口、石部、草津
多くの化粧された地蔵を見た。

 関東には化粧をする風習はないが、矢倉沢往還の関本の先に、安産と授乳の願をかけお礼に
うどん粉を塗る「白地蔵」があった。また藤沢で「おしゃれ地蔵」を見たが、実は双体道祖神を
化粧したものであった。

 金沢浦賀往還では、保土ヶ谷に享保2年(1717)の「北向き地蔵」があった。大きな角柱の上に
地蔵が座っていて、道標を兼ねていた。

 中原街道では五反田の桐ヶ谷の火葬場への道筋に、享保12年(1727)の「子別れ地蔵」
ある。ここで子に先立たれた親が亡骸を見送ったという。

 人は死ぬと地獄や天上などの六道のいずれかに行くといわれ、導くのが六道地蔵である。
だから地蔵は六体並んでいるものが多い。

 中原街道の大和市福田では、道路沿いの共同墓苑に舟型石に六地蔵が一列に並んでいる
石柱があった。東海道では藤枝の鏡池地蔵堂で、舟型の石に六体の地蔵を三段に
並べたものを見た。

 東京の散策では目黒の安養院に、六角の石柱に六地蔵が彫られている六面幢(とう)
六地蔵があった。矢倉沢往還でも裾野市岩波の道路に同様の六地蔵が置かれていた。

 また江戸の六カ所の出入口に銅製の地蔵が置かれ「江戸六地蔵」といわれている。
東海道では品川の品川寺にある。

 

○ 漆喰細工 

 漆喰細工とは、石灰の粉を糊でといて壁や天井を塗る漆喰で人物や動物などの形をつくる
細工である。

 東海道では、品川の寄木神社の本殿の扉に名人長八による猿田彦の鏝絵があった。
 で見た漆喰細工は民家の二階の外壁に漆喰でつくられた動物が飾られていた。その動物は
縁起のよい鶴亀や元気のよい鯉、龍虎などである。

 金沢浦賀往還の横須賀では、川間の町内会館の玄関に大きな木と鶴の鏝絵があった。
近くの第六天神社は鏝絵の脇障子である。

 

 資料館 

 東海道には街道に関する資料館が多い。

 再現した関所に隣接して資料館を建てた箱根新居。本陣を再現した二川草津
脇本陣の舞坂、藤川、庄野。名主邸を復元した由比の小池邸。旅籠を再現したの玉屋。
 単一目的のものでは浜松の金原明善記念館、御油の松並木資料館、
有松の絞り会館・山車会館、坂下の馬子唄資料館。
 博物館というべきのものには由比本陣公園の東海道広重美術館、島田宿大井川川越遺跡
島田市博物館がある。

 矢倉沢往還に関する単一目的の展示館として、溝の口に「大山街道・ふるさと館」がある。

 また下呂温泉合掌村には狛犬博物館がある。これは飛騨古川町の上杉氏が親子二代で
収集した狛犬を展示しているものである。

 

 道祖神 

 道祖神は道路や旅の神である。災いから集落を守る神として街道の集落の入り口に
よく見られる。塞の神ともいう。
 人生の節目である妊娠・出産、幼児守護、良縁、和合の神としても信仰されている。

 一体で座っている道祖神を東海道では沼津の神明宮、富士の左富士神社で見た。
また根府川往還・下田街道では根府川の寺山神社で一体の道祖神を見た。
 真鶴駅の周辺には7ヵ所の道祖神を見て回るコースが定められている。

 男女の神が肩を並べている双体道祖神は、東海道では吉原、岡部でも見られたが、
大磯の先の国府新宿にもあった。また小田原の八幡神社には近在から集められた
双体道祖神群があった。甲州道中の茅野、諏訪では多くの双体道祖神があった。

 中原街道ではJA横浜北流通センターの先に双体道祖神がいた。
 矢倉沢往還では柿木台の医薬神社に双体道祖神がいた。今までで最も東で見た双体のものである。

 また最もシンプルな丸石だけの道祖神を甲州道中の山梨県内で見た。

 

 道標  

 道が左右に分かれる追分に、「右〇〇道 左〇〇道」というように彫られた道標が立っている。
シンプルなものから目的によって色々な種類のものがある。

 東海道の四日市の日永追分は伊勢参宮街道との分岐点で、大きく育った木々の下に道標と
ともに常夜灯、休憩所の亭(ちん)や井戸がある。
 四日市の諏訪神社前では「江戸道」「京いせ道」と彫られ、指差しの絵でその方向を
示している。
 また草津の追分道標は東海道と中山道の分岐点で、常夜灯にもなっている。
 シンプルなものでは山科の渋谷(しるたに)越えの道標は、京の三条と五条の方向
を示している。

 中原街道では、横浜市旭区の御殿橋の手前に道標を兼ねた庚申塔が立っている。
その側面に手の指さしで方向を示し、かすかに「此方江戸ミち」と読める。

 矢倉沢往還の三軒茶屋には、寛延2年(1749)に建立された大山道標があり、道標の上に
不動明王が座っている。「左相州道、右富士(世田谷、登戸)道」と彫られている。

 矢倉沢往還は大山道なので大山道標が多い。
 東海道から大山道が分岐する戸塚の柏尾には承徳3年(1713)の大山道標、藤沢の四谷には
延宝4年(1676)の大山道標が火焔光背を背負った不動明王をのせている。

 中原街道の雪が谷には、右面に「庚申塚」と書かれた庚申塔がある。
これには「従是先九品佛道」と記されており、奥沢の浄真寺への道しるべを兼ねている。
 洗足の妙福寺には天保11年(1840)の馬頭観音がある。「北 堀之内 碑文谷道」、
「東 江戸 中延」、「南 池上 大師道」、「西 丸子 稲毛」と4面に彫られていて道標を
兼ねている。 

 東海道の保土ヶ谷には「金沢横町道標」があり、ここが金沢・浦賀往還の起点である。
 そこに4基の道標があり、1つは文化11年(1814)の句碑を兼ねた道標で
「保土ヶ谷の 枝道曲がれ 梅の花」の其爪の俳句が彫られてある。

 金沢浦賀往還の田浦塚山公園から坂を下ったところに家康の外交顧問であった三浦按針の
への道標がある。彫りが浅くなっているが、正面には「按針塚山へ約五町」と書かれている。
側面には指さししていて「WILLIAM ADAMS TOMB 1/3M」と書かれている。
 同様の道標が近くの汀橋(十一町)、JR横須賀駅(十五町)にもある。

 

○ 馬頭観音・牛頭観音

 馬頭観音は馬を交通や運搬に使ったことへの感謝と供養を表している。頂上に馬の頭を
いただく観音像が普通であるが、「馬頭観世音」と文字だけが書かれたものもある。

 東海道では神奈川から愛知の街道筋で見かけた。
 三面の馬頭をいただいているものもあり、大磯の宝船院や赤坂の関川神社で見た。

 矢倉沢往還では伊勢原の先の善波峠への山道や足柄峠からの急坂に馬頭観音が多かった。

 牛頭観音も馬頭観音と同様に感謝を表しているのだろう。 東海道では
箱根の笹原新田で「牛馬頭観音」、興津の興津川畔で「牛頭観音」を見た。

 

○ 富士塚  

 江戸時代、庶民の間に富士信仰が高まり、富士講がつくられた。富士講の人々は富士山に
実際に登って参詣するほか、身近なところに小さな富士山を築き山頂で参拝していた。

 矢倉沢往還の池尻には富士浅間神社がある。この神社の斜面を利用した「目黒富士」が
有名である。細いくねった登山道が造られており一合目、二合目などの標示杭も立っている。

 また東海道の品川の品川神社には岩石を積み上げて人工的に造られた富士塚があった。

○ 北条政子

 金沢浦賀往還の保土ヶ谷には頼朝の妻政子が化粧に使用したといわれる
「御台所の井戸」がある。

 根府川往還・下田街道では政子に関する事跡が多い。
 韮山に北条という地名があるが、鎌倉に移るまで政子が住んでいたところである。
 その近くに政子の「産湯の井戸」がある。
 熱海には伊豆の目代である山木判官兼隆との婚礼の席から頼朝のもとへ逃れ、
伊豆山神社に匿ってもらうために落ち合った「逢初橋」がある。
 政子が、修禅寺に幽閉し殺害した2代将軍頼家の菩提を弔うため建立した指月殿がある。

 

 町並み保存     

 旧道の宿を残したり復元したりして町並み保存に取り組んでいるところがある。
そこでは町おこしと連動して旅行者への挨拶や声掛けも多く、視覚だけでなく
町全体の雰囲気がよい。

 東海道の品川は商店が並び生きている宿の雰囲気がある。お休処を設けて湯茶の
サービスをするなど力を入れている。富士川を越えて岩渕蒲原、由比では塗り家造り、
せがい造りの家が並びまた一里塚、桝型の道を残していて丁寧に説明されている。
有松は黒塗りの連子格子の店、卯建(うだつ)のある塗籠め造りの屋敷、土蔵造りの蔵が並ぶ。
関の宿は連子格子、キリヨゲ、蔀戸(しとみど)のある民家や漆喰で塗り籠めた
虫籠(むしこ)窓のある商店が並んでいる。土山以降はべんがら塗りが見られ、家並みが
京風になる。栗東町は「東海道まちづくり」としてべんがら塗りの家に昔の職業と屋号を書いた
木製の看板がかけてある。 

 矢倉沢往還では、多摩川を渡ってから溝の口まで大山街道の商店街が続く。古くからの
商店の前には「口上」書きがあり、その店の由緒が短かい文章で書かれている。

 高山には味噌、酒、喫茶などの商店と古い民家の家並みが続き、通り全体が
昔のたたずまいを残している上之町がある。

○ 源範頼

 範頼は、義朝の子で頼朝の異母弟である。
 浜松の蒲御厨(かばのみくりや)で生まれたことから蒲冠者ともいう。
 東海道で、石薬師に「御曹司蒲神社」がある。
 下田街道で、兄頼朝に殺害された修善寺にがある。

 

 源義経

 東海道には義経に関する事跡が多い。

 白旗神社は源氏に関係が深い神社であるが、藤沢の白旗神社は義経を祭神にしている。
そこに義経の首を埋めたといわれており、近くには義経の首洗い井がある。
 三島の先の長沢八幡神社には、頼朝が平氏に旗揚げした時義経が奥州から駆けつけ
対面したという対面石がある。
 岡崎には義経との恋に破れて乙川に入水した浄瑠璃姫の墓がある。

○ 源頼家

 頼家は、鎌倉幕府2代目の将軍であるが、母政子と北条時政によって将軍職を奪われ、
謀殺された人物である。
 下田街道の修善寺に、頼家のがある。

 

 源頼朝  

 関東、特に幕府を開いた鎌倉のあたりには頼朝に関する事跡が多い。

 頼朝の死因は相模川(馬入川)の橋供養に臨席した時の落馬であるいわれている。
東海道の茅ヶ崎にはその時の橋の橋脚が旧相模川の土中から出てきて、
今も保存されている。

 矢倉沢往還では松田の前に、頼朝が富士の裾野の巻き狩りの行き帰りに
富士を眺めた富士見塚がある。

 根府川往還・下田街道には頼朝に関わる事跡が集中している。
 年代順にいえば、父義朝が平治の乱で平家に敗れた後、頼朝が20年間幽閉されていた韮山の「蛭ケ小島」。源氏再興の願をかけた三島の「三島神社」、熱海の「伊豆山神社」がある。
また、伊豆の目代である山木判官兼隆を討ち、源氏再興の旗挙げしたとき、籠もり祈願をした「守山八幡宮」が韮山にある。
 旗挙げしたもののすぐに大庭景親等の大軍に敗れ去った「石橋の古戦場」が熱海にある。
 真鶴には、逃れるため房総へ船出した岩漁港がある。船出まで潜んでいた「鵐(しとど)の窟」が港の近くにある。

 

○ 日本武尊  

 日本武尊の東征(東国平定)に関する伝説の事跡は多い。

 東海道では、賊徒に襲われ草薙の剣で危機を切り抜けたことに関係して清水の草薙神社
由比の鞍佐里神社があり、草薙の剣が安置されている熱田神宮がある。

 金沢浦賀往還では、房州に向かって浦賀水道を渡るとき妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が
海を鎮めるため身を投じた走水に走水神社がある。
 それに関して東海道では武尊の船団で難破した船材が流れ着いた品川の寄木神社があり、
二宮の吾妻神社では媛の櫛が流れ着いたので媛を祭っている。
 中原街道の川崎の千年には弟橘媛の着衣や冠が漂着したといわれる橘樹神社がある。

 矢倉沢往還の足柄峠は、東征の帰路東の海を眺め弟橘媛を思い「吾妻(あづま)はや」と
嘆き悲しんだところである。松田の寒田神社には武尊の腰掛け石がある。

 東海道の石薬師の手前に、伊吹山で傷ついて気息奄々坂を上ったという「杖衝坂」があり、
その傷を手当したところの「血塚」がある。また亀山には息を引き取った後白鳥になって
飛びたったという「白鳥陵」(能褒野神社)の鳥居がある。
 亀山の忍山神社は弟橘姫の生誕の地である。

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狛犬一口メモ: 狛犬カタログ  参道狛犬の集計

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